久見崎海岸周辺ご案内
久見崎海岸に行く途中には、
石橋マニア巡礼の地「江ノ口橋」があります。
長崎堤防も見ることができます。
久見崎海岸には、川内原発3号機の増設計画があります。
3号機が増設されると、
海岸がここまで埋め立てられてしまいます。
久見崎海岸は、ウミガメの
上陸、産卵の地でもあります。
市に委託されたウミガメ監視員さんの
保護で毎年多くの卵が孵化し、
ウミガメの赤ちゃんが
この海岸から旅立っています。
かつては美しい砂浜だった久見崎海岸には、
「改造社」の山本実彦が与謝野鉄幹と晶子を
案内して遊んだという記録も残っています。
そのほかにもいろいろ・・・。
タクシー会社もいろいろ。
歴史的建築物。
「○○建築物清掃業」?
道の両側に推進と反対の看板が
立っているところもあります。
※2014年現在、道路拡幅工事のため、
推進側の看板が撤去され、
より原発に近い場所に移動設置されました。
久見崎といえば、この方を思い出します。
前田トミさんという方です。
以下は引用します。
http://www.kanshin.com/keyword/1302044
「川内原発反対の魂-前田トミさん」
前田トミさんは1973年、川内原発反対母親グループとして地元久見崎で反対の声をあげてから30年、77才の今も反対運動の第一線として地元川内だけ でなく串間原発反対集会、種子島核燃料中間貯蔵施設反対の集会など、どこにでも足を運ぶ。未来の子孫のための原発に反対するたたかいに全てをかける、とい
う言葉は重く何の誇張もない。
原発から数百メートル、地元久見崎の質素なわらぶきの家に一人暮らし。柔和ないなかのおばあさんである。1925年12月8日生まれ、子供の頃、勉強、 特に作文が得意だったが“恥ずかしくて”中学校を受けなかった。当時の女性にとってそれが当たり前だったであろうか。その代わりに入った青年学校のとき先
生から見込まれて、代用教員の検定試験を是非受けなさいと強く勧められたという。「今まで誰にもこのことは話さなかったのだけど・・・」。
原発反対の原点は戦争体験であった。17歳の誕生日に日米戦争勃発、「聖戦」に協力しようと日赤看護学校を受験した。だが何かと彼女を可愛がってくれた 長兄が徴兵され戦死した。身の回りの人は皆何も疑わず、後で紙屑となった戦費調達のための国債を進んで購入した。この体験は20数年後地元川内で原発問題
が起きたとき物事の核心を掴むことになった。
人一倍シャイで涙もろく、正義感が強くかつ頭脳明晰であることは77歳の今でも変わらない。話が原発のこと、社会のこと、政治のことになると積年の思いと情念が、同時に磨かれた知的な頭脳からしか出ないであろう、的確で論理的な言葉がほとばしり出る。
彼女にとって反原発運動とは大集会で大勢の人々に大きな声で語りかけることではない。思いを込めた自分自身の声、読む人に書き手の意志を感じさせる手書き の手紙なのである。 1994年1月から実に毎日、首相、経済産業通産大臣、科学技術庁長官の3閣僚に原発を早く止めてくれと、どこか地震が起きたときは
九電社長に対しても8年以上はがきを出し続けている。たまたま各地の集会へ呼ばれて出かけた先でも、少しの合間をみて郵便ポストへと走る。
ところがこの6月、首相官邸が移転したとき彼女の手紙は「宛先不明」として返ってきた。郵便配達の人にとって、今や日本の首相官邸も普通の人家並みの存在 感になったのでしょうかと笑う。私は本当に日本を考え動かしているのは首相などでなく、無名の庶民なのだと頭でなく実感として信じられるようになった。
賢い国には原発はいりません
見直して下さい地球の未来のために是非
日本はこれでいいのでしょうか
危ぶまれて仕方ありません
見直して下さい未来のために
「反戦」「平和」「反核ゴミ」は私の「祖国愛」「郷土愛」のモトイであります
現世は次なる御世の母胎なり
とこしえなれと朝な夕なに
前田トミさんについては、
「南方新社」の向原祥隆さんのブログにも
書かれています。
引用します。
http://www.nanpou.com/staff/karab.folder/kara3.html
2007.5.25 村栄え
5月15日、午前7時35分、前田トミさんが息を引き取った。82歳であった。川内に原発話が持ち込まれた当初から、その死に至るまで、一貫して現地・久見崎に暮らし、反対の声をあげ続けてきた。まさに闘士だった。
以前、トミさんから伺った話をもとに、西日本新聞に「村栄え」と題したコラムを書いたことがある。以下再録して、トミさんを偲びたい。
何もない田舎は、何もないことが価値なのであるが、背伸びしてちょっとましな暮らしを望むと、とんでもないババを掴まされることがある。
笑えない話だが、九州電力川内原発はその典型なのである。
地元の村に住み、計画当初からずっと原発を見続けている前田トミさんの話を聞いて、つくづくそう思った。
出稼ぎで何とか暮らしを立てていた寒村に、「原発ができれば、施設での仕事がいっぱい増えて、出稼ぎに行かなくてもよくなる」と、立地担当者は胸を張って言ってまわったという。
「九電の家族連れの職員がいっぱい住むようになるから、村には子供があふれるだろう」とも予言した。そうなると、「小学校の校舎は新築され、プールもできる」と。
原発建設が始まってから30年後、現実はこうだ。
いったんできてしまえば、専門知識のない地元の人にできる仕事はない。無理して働こうとしても、あるのは放射能を浴びる危険な被曝労働くらいのものである。
小学校はどうなったか。150人はいた小学校の生徒はその後減り続け、十数人に。廃校寸前である。頼みの九電の社員は家族を危険にさらしたくないのか、 はるか遠くから通勤するようになったのである。立地担当者の約束が守られたのは、歓声の絶えた小学校にのこる、鉄筋の校舎とプールだけ。
「村栄え、人あふれる」夢は、あえなく夢に終わった。
貧乏な田舎の人間は、大企業のエリートにころころと騙されていった、と前田さんは語る。
田舎の人間が純朴だから騙されたのではない。欲に目がくらんで転んでいったのである。
お金に縁がなければ、ないなりに日々の暮らしを楽しむ術を人々は知っていた。そこに、幻想の明るい村の未来が振りまかれ、とどめを刺したのは金であっ た。最初は反対で一致していた地元の人も、一人、また一人と口をつぐんでいったという。思いもかけない裏切りもあった。
エリートたちは、人々の欲をあぶり出し、ウソと金を道具として、目的を成した。この世の薄汚い現実をこれほどはっきり見せてくれる原発は、逆に貴重な存在なのである。
原発近くのふたつの小学校は閉校になりました。
久見崎海岸周辺ご案内(追記)
今回は、川内川北側(右岸)の道を
下って来るルートのご案内です。
267号線を宮之城方面からやってきて、
3号線との交差点を「川内港」「京泊」方面へ進みます。
雄大な流れを眺めながら川内川を下っていきます。
こちらの道沿いには「川内戦国村」があります。
先端まで下ると京泊地区。
京泊には「京泊天主堂跡」があります。
京泊地区から対岸を眺めると、
2基の原発の姿を見ることができます。
こちらがわには、火力発電所と川内港もあります。
こちらがわから久見崎海岸へ行くためには
「河口大橋」を渡らなければなりません。
本当にきれいなところで、
「原発さえなければ…」という思いも
ふつふつと湧き上がってきます。
最後にこの記事を紹介します。
~『釣りバカ日誌』と原子力発電所の関係
国民的映画の元監督が明かす
美しい港には原子炉があった。そして・・・~
(現代ビジネス)の川内原発に関わる部分の引用です。
—撮影時に電力会社などから「原発も映してくださいよ」と言われたりはしなかったのですか。
栗山 それはな かったけれど、きれいな景色を映そうと思ったら原発まで映って困ったことはあったね。たとえば鹿児島の薩摩川内市が舞台となった9作目。薩摩川内市の河口 から、甑島というきれいな島に船で渡るシーンがあるんだけど、河口から島に向かうと、そこには川内原発があるから、どうしても画面に映ってしまう。でも、 どう考えても原発は絵にならないから、結局河口から島に行くシーンは、カットしてしまった。